鋸山日本寺の踏破をしてきた

どうも、同人結社鬼姫狂 代表の秋元惟史(作家名義・民富田智明)です。

休日を使って、千葉県にある鋸山に行ってきました。

鋸山は、良質な石材が産出されることで知られ、長らく大規模な石切場として利用されており、それにちなんで鋸山と呼ばれています。

鋸山は、環境保全の観点から石切場としての機能は停止していますが、古来からの山岳信仰の場でもあり、現在でも日本寺というお寺の境内地となっています。

この鋸山は、もともと石切場であることから多くの石仏が作られており、中でも全長30メートルの日本最大の大仏と摩崖仏が見ものとなっています。

寺社巡り好きとしては、一度は行ってみたい寺社のひとつでありました。

しかし、東京湾を隔てた房総半島の下の方にあるため、慢性的な渋滞源である都心を経由しないと行くことができず、後回しにし続けてきました。

とはいえ、房総半島には滅多なことがないと行かないだろうと思うので、うちきりの話があるGOTOキャンペーンで一泊の旅行計画を立てて行ってきました。

貯金があまりないというのもあって、宿泊先は安めのところを探し、食事には期待しないで寝れりゃいいくらいのつもりでいました。

当日はあいにくの悪天候。
移動中、散策中に天気が晴れることを願い、準備して家を出ました。

出発すると、案の定都心で大渋滞にはまり、都心を抜けるのに1時間以上のロスをしてしまいました。

片道2時間程度のところ、3時間以上かかり、駐車場到着。

濃霧がかかり、山の全景は見えません。
しかも、結構な雨。

山道を進んで、まずは30メートルの大仏を参拝。
奈良や鎌倉の大仏と違い、山の岩肌を直接削り出して仏像にしています。
これを削り出した昔の人々の執念に圧倒されます。

山道を進めると、無数の石仏群が出てきます。
岩肌の手彫り感が凄まじいです。

トンネル状に岩肌を削り込んで参道が作られています。
冒険心をくすぐられます。

首なしの石仏が!
廃仏毀釈の名残でしょうか。

石段をガンガン上ります。

不動滝。
滝はほとんど枯れていました。

参道を上り詰めると、切り通しが現れます。

切り通しの先には摩崖仏。
まるで厨子に納めているかのように岩肌をくりぬいて彫像しているのが凄まじい。

さらに参道を進みます。

山頂は完全に濃霧で、突風が吹いていました。
有名な地獄覗きは危険を感じたので諦め、地獄覗きを横から撮影して済ませました。
ここからでも、下を見ると吸い込まれそうで怖かったです。

地獄覗きとは別に、もう一つの登頂部があり、行ってみると祠がありました。

祠の脇には石碑があり、世界救世教が建てたものだそう。
この鋸山は、世界救世教の教祖である岡田茂吉が天啓を受けた立教の地だそうです。

いや、実際に行ってみると、敬虔な人であればお告げのひとつは聞けそうな雰囲気です。

祠の参拝を済ませ、別ルートから参道を下りて、見逃した石仏を拝観します。

参道をひたすら下りると、大仏前に出ました。

大仏に再度参拝して、駐車場に戻りつつ、まだ見ていないお堂に参拝し、山を下りました。

駐車場に戻る頃には天気が晴れ始めまして、昼食のために、近くの漁協直営の食堂に向かいました。

埼玉ではお目にかかることのできない、漁港。

平日なのに想像以上に人がいまして、ほぼ満席で順番待ち。
地魚海鮮丼とイカのかき揚げを注文。
イカのかき揚げが創業時からの定番らしいのですが、頼んだら、700円なのに四人前くらいはあるのではないかという大皿で出てきました。
さすがにかき揚げで食べすぎとも思いましたが、完食です。

昼食後は、車を走らせて館山城址に向かいました。

房総半島旅行記の後半は、館山城址と養老渓谷です。
これはまた、後日。

鬼姫狂は宗教法人に向いているのかもしれない

どうも、同人結社鬼姫狂 代表の秋元惟史(作家名義・民富田智明)です。

アマゾンで、「宗教法人ハンドブック」という本を注文しました。

鬼姫狂は、「武州鬼姫信仰」という神仏習合の新しい民俗信仰を題材にした世界観共有型の会員制創作活動団体として設立し、根本聖地「鬼姫神社」の建立を目指しています。

とはいえ、神社の建立を目指しながらも、「宗教は危険」という世の中の偏見に対する警戒から「宗教的な世界観を題材にした創作活動であって宗教そのものじゃない」と主張するために、「非宗教の合同会社の設立」を軌道に乗せる目標にしていました。

けれども、宗教学の基本書1冊も読むことなく「宗教は危険」と言い張るような層は、そもそも宗教的な世界観に関心のある人ではないので、鬼姫狂徒にはなり得ないのではないかと考えるようになりました。

将来的に神社の建立を目指す以上、神社部分の宗教法人化が最もスマートなやり方なわけで、非営利部門の宗教法人と営利部門の合同会社の併用が現実的なのではないかと思います。

「お金を取る宗教は詐欺。本当の宗教はお金を取らない」という言葉もありますが、神社も寺も教会も、施設を維持していくためにはお金が必要ですし、そもそも神主も僧侶も神父も収入がなければ生きていけないので、宗教団体の収益活動は当然に認められています。

宗教団体の収益活動で代表的なのは、冠婚葬祭、医療福祉、教育、出版、観光あたりですが、税務上ややこしくなるからか、宗教法人とは別の会社を立ち上げて収益事業をやっていることが多いですね。

なので、鬼姫狂でも、一般的な収益事業は「同人結社鬼姫狂」(法人化後は「合同会社鬼姫狂」の予定)を通して行い、神社部門は「宗教法人鬼姫狂」でやっていくことを想定します。

私はキリスト教の明治学院大学(大学として正式な宗教部がある)に在籍していたこともあり、宗教が収益活動をすることに何の違和感もないので、出身校のビジネスモデルを参考にして、宗教部門と営利部門を併用します。

ちなみに、アマゾンには、キンドル本で「神社・仏閣……すべての宗教法人のための 収益UP&節税対策パーフェクト・マニュアル 【マニュアルシリーズ】」というものもあったので、「お金を取る宗教は詐欺」という意見の方が嘘ということになるでしょう。

「お金を取る宗教は詐欺」が真実であったなら、宗教系幼稚園保育園や、宗教系大学は全部「無料」にしなければ論理が成立しないことになります。

しかし、現実には、単純な境内参拝を除いて、重要な部分を無料で役務提供している宗教はないので、神社もお寺も堂々と料金を取っていいわけです。

従って、武州鬼姫信仰を根底とする鬼姫狂も、非営利の神社建立を目指しつつ、その資金源としての営利活動を展開しても何も悪くないということになります。

ただ、鬼姫狂は、一過性の人工的な流行のために消費される対象にはされたくないというのが本心としてあるので、「大して好きではないけど、目先の金儲けのために使えそうだから、表面的に利用するぜ」みたいな魂胆の相手には「鬼神童女遊侠伝」シリーズの契約はしたくないです。

34年も生きていると、「流行したはずが、しばらくしたら忘れ去られる」「期待されてたのに、コケると手のひら返しされる」という現象を何度も垣間見ているので、営利最優先の商業主義の危険性も感じています。

なので、鬼姫狂では、「鬼姫山三神」への帰依が一番重要なこととし、鬼姫狂徒以外には権利の取引をすることはありません。

誰でも口では「好きだ」と簡単に言えるので、実際に「鬼神童女遊侠伝」シリーズを買っていて、何らかの私見を持っていることが、鬼姫狂徒の証としています。

「鬼は悪だ」という古来からの前提を真正面からぶっ壊しているのが鬼姫狂なので、「鬼こそ善だ」とする鬼姫狂は、反社会的な思想を持っています。

つまり、万人受けするわけではない団体なのです。

鬼姫狂は法人相手でなく、個人相手を基本としているのも、「給料のため、職務上仕方なくやってる」というのを避けたいからですね。

「鬼こそ善だ」という考えに本心から共鳴できる人だけ、鬼姫狂徒になってください。

鬼姫狂は、「腕っぷしは強いが心優しい女の子の鬼」という点においては、著作権と商標権によって、ほぼ独占的な市場を確立しています。

鬼姫狂徒になれば、その範囲においては競合が原理的に存在しないのです。

100人中98人には無視されても、残りの2人にとっては魂の救済になる。

それが、鬼姫狂の立ち位置なんだと思っています。

鬼姫狂の最高幹部募集告知の文面編集中

どうも、同人結社鬼姫狂 代表の秋元惟史(作家名義・民富田智明)です。

企画を進めている実写映画「鬼神童女遊侠伝/まさかり担いだ熊男(仮)」の出演者を兼ねた鬼姫狂の最高幹部候補の募集告知の文面の編集中です。

A4用紙1枚の裏面だけに過不足なく必要事項を記載するってのは結構難しいもんで、試行錯誤しています。

必須内容としては、
新作映画の要約と配役、
持分一部負担の世襲制であること(世襲制の根拠は著作権と著作隣接権の円滑な継承)、
前提として創作師と芸能師と伝道師を同時登録すること、
会費制の代わりに実技研修をすること、
固定報酬がない代わりに軌道に乗ったときの報酬幅が大きいこと
あたりです。

創作活動と芸能活動の経験は一切不問で、むしろ未経験歓迎ですが、芸術系大学出身の画家志望、彫刻家志望、舞踏家志望、音楽家志望などがいると、鬼姫神社の建立と運営に重宝できるので、優遇します。

芸術系大学出身者って、就職ではかなり不利で、大学の専門と就活で求められることの乖離が激しく、フリーターやニートになっていることも結構少なくないので、芸術系大学卒を条件にするのが一番効率的と考えています。

私自身が芸術系大学出身者なので、専門を活かした就職先がほとんどない現状はよくわかっています。

芸術系大学出身者で世襲制最高幹部を固め、資本を分担し、創作活動だけでなく芸能活動も兼務する形にすれば、老後の遺産継承がしやすいのですから、表現者の募集として悪くないと思います。

創作活動や芸能活動をやる人は、かつていじめられっ子だったために感性が鋭敏になったという例も結構あるそうで、「社会的に弱い立場に置かれている人の活躍の場を作る」という鬼姫狂の理念とも矛盾しないので、芸術系大学出身者を優先します。

創作活動や芸能活動を家業とする者にとって、その表現対象である偶像はまさに職業神なので、「鬼姫山三神」を祭祀するのは当然であって、「鬼姫神社」を代々継承することになんら問題がありません。

表現物の神仏への奉納という、創作と芸能の最も古典的な役割に立ち返るのです。
そういう意味で、鬼姫狂の最高幹部は、鬼姫神社の神職でもあるでしょう。

日本では宗教教育の乏しさからくる偏見が大きいので、「危険なカルトと混同されたらどうしよう」と不安もかなりありましたが、創作や芸能を突き詰めると源流が宗教になってしまうので、「表現者のための山岳信仰系新宗教ですが何か?」という姿勢がむしろ正統派の証明なのかもしれません。

作品研究のために「鬼滅の刃」を買いたいが、品薄

どうも、同人結社鬼姫狂 代表の秋元惟史(作家名義・民富田智明)です。

漫画「鬼滅の刃」が信じられないような大ヒットになっていますね。

自分の活動の方に精一杯だったので、同じ鬼物の作品でありながら原作を読んだことがなく、実際にどんな内容なのかわからないので、作品研究のためにちょくちょく買い集めようと思っています。

けれども、極端な流行のためか品薄になっていて、本屋どころかネットですら買えないようで、ちょっと困っています。

まだまだ注目されていない「鬼神童女遊侠伝」のほうが鬼物としての歴史は古いので、「鬼滅の刃」の大人気には複雑な気持ちもありますが、鬼の捉え方の方向性が「鬼神童女遊侠伝」とは真逆なので競合するものでもなく、素直にその成功を尊敬したい立場です。

鬼姫狂は、「鬼姫伝承学」という専門の学術研究をする場でもあるので、鬼物の創作物はすべて研究対象です。
なので、「鬼滅の刃」も、鬼の文化の関連作品として、書籍版を正規に購入して収蔵します。
実際に読んでみないと何とも言えないので、「まずは買ってから語る」のが研究の姿勢です。

「鬼滅の刃」を調べると、出てくる鬼が「角なし系」で、「もともと人間だったが、色々あって鬼と化した説」を採用しており、「鬼の過去語り」で「鬼にもこういう理由があるんだ」という深みを演出しているそうです。

私は、妖賊の描写にはパニック映画やホラー映画を参考にしていて、「何も説明しません」。
ただ、何の理由もなく、快楽のために、少年少女の命を狙って攻めてきます。
お凜様も、「余計な自分語りをすることもなく」、黙って戦います。
公式サイトには鬼姫狂の根本的な世界観を公開していますが、作品そのものでは、言葉で説明しません。
一番見せたいし見たいのは「戦い」そのものなので、余計な会話はできるだけ削除します。

妖賊の親分は特別な妖術を使えるという設定がありましたが、これは削除しました。
映像紙芝居版と絵本版には特定の妖術を出しましたが、どこかで見たことのある能力しか思いつかないというのがあり、陳腐に感じてしまったので、やめました。
現在進めている実写映画版では、妖怪だから妖術を使うという固定観念から抜け出し、銃撃戦と格闘戦に集中します。
神力と妖力を込めた弾数無限の銃を使う時点で、それ自体が妖術みたいなものなので、超自然性は担保できます。

「鬼神童女遊侠伝」の場合、実写映画化を理想形としているため、下手なVFXで失敗するくらいならば、妖術など省いた方が撮影しやすくなるのです。

「鬼滅の刃」の場合、否定する意味ではなく、典型的な少年漫画風の登場人物が多そうで、衣装や髪形など、実写映画向きではない印象を感じました。

そういう意味でも、「鬼神童女遊侠伝」とは目指している方向性が違うので、「鬼滅の刃」は「21世紀型の鬼退治物の名作」として共存できるものでしょう。

ところで、不思議なのは、これだけ「鬼滅の刃」が社会現象並みに当たったならば、大河ドラマの便乗商法のように、マイナーな民俗学系の専門書や鬼を題材にした過去の作品が注目されて、増刷や復刻で平積みされてもおかしくないのに、不思議とそういうのがないことですね。

「鬼滅の刃」だけが人気で過去作品が顧みられないのって、ちょっと不自然なブームとも思っています。
「鬼滅の刃」はジャンプなので、「地獄先生ぬ~ベー」や「鬼神童子ZENKI」が回顧されてもおかしくはない気もするんですよね。

余談ですが、「鬼神童子ZENKI」って、「鬼神童女遊侠伝」と題名が似ているんですけど、内容は全く別物です。
鬼が主役という意味では同じなんですけど、むこうは「男主人公でかつ封じられた使い魔的存在」なので。
小学生の頃にアニメを1回見ただけで、単行本も未入手でして、ほとんど内容は知らないです。
題名を参考にしつつ、ずらしました。

女の子にする、使役神にしない、学園ものにしない、密教的な演出をしない、善鬼という単語を出さない、題名に「遊侠伝」をつけて侠客的側面を強調する、童話風にする、という方向で差別化を図っています。

「鬼神童子ZENKI」と「鬼神童女遊侠伝」で、鬼が主役の活劇物は男女とも埋まっているので、鬼退治物の「鬼滅の刃」を合わせれば、鬼物の創作は、すき間を狙うのがかなり難しくなったんじゃないでしょうか。

今は、「鬼滅の刃」が大ヒット中ですが、すでに原作が完結しているので、そのうち鬼姫狂と「鬼神童女遊侠伝」の時代が来ると信じていますよ。

だって、お凜様は、邪悪な妖賊から子供たちを守ってくれる、勇猛で可憐な正義の鬼神様ですから! 好きにならない理由ないですもん!

まだ、評価される時期じゃないだけです。

映画制作のための人員募集イラストが完成

どうも、同人結社鬼姫狂代表の秋元惟史(作家名義・民富田智明)です。

鬼姫狂の正式な団体化を目指して、世襲制最高幹部待遇保障の公式作家兼初代看板俳優募集のための告知イラストが完成しました。

もともと、実写映画第1弾「鬼神童女遊侠伝/まさかり担いだ熊男」には男の子は登場しない構想でしたが、私自身を含む永遠の映画少年が感情移入しやすいように、男の子の視点で物語の一部始終を描く形式にします。
そのため、告知用イラストにも男の子を描き加えました。

題字が男の子の顔に重なってしまいましたが、視点は男の子でも、主役はお凜様なので、問題ありません。

レイヤー分けしてパーツを描き加えられるのが、デジ絵のいいところですね。
液タブとクリスタを導入して、下描きからデジタル化できてよかったです。

この実写映画の参加者募集用イラストを描いていて思ったのは、「ホント絵が下手だな」ってことです。
幼少時から描き続けているとは思えないです。
まあ、西洋絵画を専門に学んだわけでもないし、そもそも写実的な絵を描きたいわけでもないからなんですが。
どちらかといえば、「鳥獣戯画」のような絵が好きです。
「鳥獣戯画」って、美術史上の名作扱いですが、実際のところはお坊さんの趣味の楽書きらしいですけど。
人形劇団時代もポスターを自分たちで描いてたわけですが、専門的に西洋絵画の教育を受けていない普通の人が描く手作りのポスターって、実際のところ、こんなもんです。
絵なんて、記号的に意図が伝われば成立するので、「好きで描いてんだ。悪いか!」でいいんじゃないかと思っています。

題字の頭に「総天然色空想西武劇™」とありますが、「空想西武劇」というのは、「武州西部入間地方を舞台の中心として展開される、銃撃戦と格闘戦を最大の見せ場とする、時代劇、現代劇、未来劇を包括する無国籍感のある空想大活劇」を端的にひとことで表現した造語で、Fantasy Musashino Western と英訳します。

映像学科時代に、日本の時代劇と香港の古装片とアメリカ・イタリアの西部劇の多大な影響を受けまして、そのいいとこ取りをしたのが「鬼神童女遊侠伝」の着想なのです。
あの頃からずーっと、「ムサシノウエスタン=西武劇」を構想していました。

イタリア製西部劇を「マカロニウエスタン」といいますが、もともと西洋圏では「スパゲッティウエスタン」だったのが、日本だと発音しにくいから「マカロニウエスタン」になったそうです。

でも映像学科時代に疑問だったのは、「イタリアンホラー」「イタリアンゾンビ映画」というように、「イタリアンウエスタン」「イタリア西部劇」じゃだめだったのかということですね。

ご当地感を出すためには、「地名+ジャンル名」が一番しっくりきます。
なので、私は、生まれ育った地元を舞台にした「武蔵野」の「西部」の「劇」だから、「西武劇(ムサシノウエスタン)」がしっくりくると思いました。
西部劇といえば「荒野」ですが、まさに「武蔵野」なので、「遥かなる武蔵野大地」……完全に西部劇じゃないですか。
しかも、武蔵野武士のゆかりの地である「武州」ですからね、アクション映画の聖地にすべきとしか言いようがないです。
さらに、武州西部の奥地には雄大な秩父山地が広がっているわけで、山岳信仰と「西方浄土」とも結びつけられます。
秩父の山奥には、極楽浄土の入口があるのです!(実際、秩父三十四箇所観音霊場、武蔵野三十三観音霊場が点在しています。)

生まれた土地が、たまたま武州西部だっただけなのに、無国籍剣戟映画をやるにはもってこいの土地柄です。

で、「空想西武劇」の「西武」が、地元大手企業の社名なので、学生時代からそこがどうなのかというのがあったのです。
ですが、「空想西武劇」は既存の映画ジャンル「西部劇(Western)」のもじりであり、そもそも「西武」が「武蔵国の西部」という意味の一般的な地名でしかなく、「西武文理大学」などの「西武」をつけた法人が多くあることから、業種が競合しない限りは法的に問題ないと考えています。
「鬼神童女遊侠伝」のブランディングとして「武州西部発祥」を強調したいだけなので。
「空想西武劇」をネーミングとして本気で欲しいと思っていれば、大資本に任せてとっくに権利化しているはずなので、弱小個人の私が商標出願できたってことは、「西武劇 ムサシノウエスタン」をやる予定がないってことです。
商標登録は先着順で、原則として本当に使いたいと思って出願した方が権利取得できるので、あとは特許庁の客観的な判断ということです。

これからの時代、どうなるかわかりません。
だからこそ、自分の活動の大義名分を得るための法的権利の確立は大きな意味を持つと考えています。