鬼姫山回峰行 第7回 高山不動尊&関八州見晴台

どうも、同人結社鬼姫狂 代表の秋元惟史(活動名義・民富田智明)です。

本日、鬼姫山回峰行として、飯能市の西吾野付近にある古刹・高山不動尊とその奥の院がある関八州見晴台を踏破してきました。

鬼姫山回峰行とは、武州鬼姫信仰において神聖視される秩父鬼姫山の比定地である秩父山地と、各地方に点在する鬼姫山支山の比定地である山岳地を、仮に鬼姫山と見立てて自らの足で踏破することによって、鬼姫山へ想いをはせ、己と向き合い、鬼姫山三神と心を一体化させ、神秘の萌燃力を授かることを目指す山岳修行です。

鬼姫狂団では、この鬼姫山回峰行を、鬼姫狂徒が重要視すべき根本的な三大実践行としています。

さて、今日登った高山不動尊と関八州見晴台は、埼玉県西部出身で、車の運転ができて、ある程度神社仏閣に興味のある人であれば、一度は行ってみようと考える場所なのではないでしょうか。

私は、大学生の頃、20歳で運転免許を取って以来、ここに興味がありました。
しかし、高山不動尊までの道はすれ違い困難な細い林道であるため、車で行くには抵抗があって、ずっと後回しにしていました。
道路ガイドなどにも、「ガードレールのない狭路、離合困難なため通行は避けるべし」とありました。
母親がかつてドライブ中に奥武蔵グリーンラインから国道299号線に出ようとして、「高山不動尊 国道299号線近道」とあったので入り込んでしまい、引き返したくても引き返しようがなく、対向車が来ないことを祈りながら下りていって、泣きたくなったそうです。
母親のこの話を聞いていたため、今でも山間の林道のような狭い道は車で行くのを敬遠しています。

で、高山不動尊と関八州見晴台まで車で行くのを断念した場合、必然的に自分の足で歩いて行くという選択肢しかありません。
そのため、今回、鬼姫山回峰行として、麓から歩いて踏破することにしました。

高山不動尊は、真言宗のお寺で、ウィキペディアの記述を参考にすると「伝承によれば白雉5年(654年)藤原鎌足の子の長覚坊、三輪神社の別当宝勝坊、藤原氏の臣である岩田三兄弟が創建したという。その後716年、行基が五大明王像を造り、そのうちの1体が現存する軍荼利明王像であるという。以上の草創縁起は伝承の域を出ないものであり、正確な創建時期は明らかでない」とのこと。
お堂の前に立てられた由緒書には、祀られている軍荼利明王像は、飯能地区では最古の仏像とされているようです。

今回の山行きの起点は、国道299号沿いにある休暇村奥武蔵駐車場です。
登山道の最寄の西吾野駅には駐車場がないそうなので、登山ガイドには「ここに車を置いて、下山後に日帰り入浴してから帰るのがよい」とありました。
なので、素直にそれに従いました。

休暇村奥武蔵。
温泉ではないにしても、露天風呂はあるそう。
駐車場利用料として、下山後にお風呂に入るつもりでいたので、堂々と駐車しました。
登山靴に履き替えて、準備体操をして、施設には入らず国道299号に出ました。
国道を挟んで施設の真向かいに高山不動尊から続く道があり、ガイドでは西吾野駅から登山してその道から下山するコースが紹介されていました。
なので、そのつもりでした。

休暇村から国道299号を歩いて西吾野駅前へ。
歩くと結構遠い。
初めて西武線の山間部の駅前に来ました。
無人駅ではないようです。
公衆便所で用を足してから、登山道に向かいます。

西吾野の駅前一等地。
圧倒的、山の風景。
これで、交通の便が良くて生活必需品や嗜好品が手に入るお店が整っていれば、文句なしです。
自然の多いところに住みたいです。

駅前から坂を下りたところに道標があります。
高山不動尊まで約90分とのこと。
距離では書いてくれないようです。

川沿いの道を延々と歩きます。

謎の石仏。

高山不動まで3.5㎞。
西吾野駅前まで0.9㎞なので、駅からの計算で4.4㎞ですね。
休暇村からの道を合わせたら、余裕で片道5㎞以上ですね。

道標がありますが、2方向の両方に高山不動とあります。
たぶん同じところに出ると思うし、こちらの方が近道っぽいので、ここを進みます。

住宅の間なのに、凄まじい急坂。
まだ石段の方がまし。

急坂を登ると、道標があるので、高山不動の方に進みます。

民家の脇を通りますが、急斜面に無理矢理家を建てています。
山上集落恐るべし。

登山道に突入します。
結構細いです。

結構岩がゴツゴツしています。
おまけに勾配もきつめです。

しばらく延々とこんな感じの道が続きます。
この時点で息があがっています。
段差を踏み越えていく途中、トカゲのような生き物を踏みました。
たぶんトカゲです。
ヘビではなく、トカゲだと信じています。

ごつごつした岩の道は過ぎたようです。
延々ときつめの坂が続きます。
杉林のど真ん中なので、風景に変化もなく、疲労だけが貯まります。

延々と登り続けますが、倒木をくぐるアドベンチャー気分も味わえます。

延々と登りが続いた先に、道標が出てきました。
距離は書いていません。

東吾野(?)方面に向かう分かれ道に石仏。

延々と続く道。

急勾配の坂を上る途中に茶店跡があり、そこのベンチに座って休憩。
水分補給をして、コンビニで買ってきたブラックサンダー(チョコ)を食べて栄養補給。
くそ疲れていたので、うっかり休憩場所の茶店跡を撮影し忘れました。
同じような風景が続くので、今となっては、どの写真の後に休憩所があったのかすらわかりません。

尾根筋に出ました。
左側は視界が開けていて、ものすごい高度に来ていることがわかります。

道標がありました。
不動滝・白滝・大滝というのに興味がありましたが、かなり大回りになるみたいなので、高山不動方面に進みます。
里歩きならともかく、山歩きでの大回りは、致命的になる迷子要因です。

延々と進みます。

謎の祠が突然現れました。

石が祀られていて、油性ペンで「西山ノ神」と書かれていました。
古神道ですね。

こんな人里離れた山奥の道に突然お墓が現れました。
この山域の所有者のものなんでしょう。
「都城」とあるので、神道式ですね。
神道では本来葬儀をしないので、神道式のお墓は明治以降に仏教を倣って確立されたものだそう。

延々と進みます。

急に杉林の中に竹林が現れ、人の手が入っている雰囲気になりました。
人の声も聞こえてきました。

斜面の下に建物が見えました。

集落に出ました。

左の広場に入ると、堂々とした石段がありました。
高山不動尊に到着です。

大イチョウ。

なんか廃墟のようなものがあると思ったら、飯能市立高山小学校とのこと。
面積的に、教室が一つしかなさそうなので、分校でしょうね。

小休止した後、石段を登りました。
結構急な上に、足場の縦幅が狭いので、怖いです。

上からのぞくとこんな感じ。
普通に怖いです。

急な石段のすぐ前にお堂があるので、正面からだとお堂全体を撮ることができません。
石段の途中だと、ちょっと怖くてカメラを覗く余裕がなかったです。

本堂に上がってお参りしました。
ものすごい重厚な歴史を感じます。

これが重要文化財の軍荼利明王像です。
この圧倒的造形美。

こういうのを色々見てくると、そりゃ神社や寺を建てたくもなりますよ。

武州鬼姫信仰を、鬼姫山三神を、外部の一民間営利企業によって、ただの金儲け主義の娯楽のための一過性の消費物に扱われるのは嫌ですね。
たとえ有名な大手出版社などであったとしても、武州鬼姫信仰の発祥と創設にまったく関わっていない、他人の会社ですから。
鬼姫山三神は、子、孫、ひ孫以上の代まで伝承されるべき、もっと崇高な対象なのです。

日本史上、100年単位で絶えることなく残り続けているものは、皇室を除けば、神社仏閣しかありません。
だから、鬼姫狂団では、阿弥陀堂を併設した根本聖地鬼姫神社の建立が目標なのです。

お参りを終えて、トイレを済ませた後、奥の院のある関八州見晴台に向かいました。
お堂の脇から登山道が延びています。

この先で、いつの間にか人の家に入り込んでしまい、案内板もないので焦りました。
家の裏には登れそうな斜面があり、そっちかもしれないと思って進みました。
ただ、登山道というよりは、林業用の作業道という感じでした。
道幅は狭く、急斜面で、枝葉が大量に積もっていて、不安になりました。

不安な斜面を進むと、ガードレールの切れ目が見えました。
歩いているところはもはや道に見えません。
ただの斜面です。

林道に出ました。
かつて母親がうっかり入ってしまった離合困難な狭路です。
歩くと広く感じますが、車1台しか通れないでしょうね。
目の前が待避所になっています。

謎の祠。

林道を登ると、奥武蔵グリーンラインにぶつかります。
母親は、「国道に出られます」という表示を信じて、ここを下りてしまったわけですね。
「狭路のため離合困難」くらい書くべきと思いますが、たぶん、オート三輪が活躍していたような、昭和で時代が止まっている表示なんだと思います。

グリーンラインを左に進むと、関八州見晴台の登山道があります。

延々と登ります。

また車道にぶつかります。

車道に出て少し登ると、関八州見晴台入口とあります。
さらに登ります。

きつい坂を延々と登ると、人の声が聞こえました。

関八州見晴台に到着しました。
くそ疲れて限界です。

高山不動尊奥の院。
お参りした後、ぐるりと景色を一望し、昼食をとりました。
子ノ権現の時と違い、今回はしっかりコンビニで食料を調達していきました。

山の上で食べるおにぎりはうまい。
ただ、疲れ果てているので、がっつりお弁当を食べる気にはならなかったですね。
おにぎりがちょうどいいです。

標高771m。
子ノ権現が640mなので、それより高いですね。
筑波山が877mだから、本格的な登山の域に入りつつあります。

鬼姫山に想いをはせて、しばらく景色を眺めました。

山に登った以上は下りなければいけません。
20分ほど休憩した後、下山を始めました。
とりあえず、高山不動まで下りてから、林道をひたすら歩いていきました。

高山不動を少し下りると、神社があります。
神社をお参りして、ひたすら車道を歩き続けます。

こんな道、絶対走りたくないです。
歩いていると、業者風のバンとセダンが下りていきました。
登ってくる車はいなかったので、無事に麓まで走破したんだと思います。

こりゃ、母親も泣きそうになりますよ。

歩くにはいいけど、絶対に車で入りたくない……。

だいぶ下りてきました。
植生が変わったのがわかります。

こんな岩肌もあります。

こんな神秘的な景観なのに、道路が狭すぎて泣きたくなります。

ちなみに、ここまで下りてきて、待避所が一切なかったです。

集落に出ました。
渓流沿いで景色はいいですが、道路が狭すぎます。

国道299号とあります。
その下に、あじさい館車庫裏入るとあります。
あじさい館とは、休暇村奥武蔵の旧称です。

この狭い車道は、顔振峠の入口である吾野トンネル付近まで延々と続きます。

休暇村奥武蔵がゴールなので、脇道を行きます。

人の家の庭でしょ、これ。

竹林に突入します。
ここまで下りまくったのに、峠越えが始まります。

延々と急坂を登ると、切り通しがあります。

切り通しを越えて、下り続けます。

休暇村奥武蔵が下の方に見えました。
だが、まだまだ高度があります。

シカやイノシシを通せんぼする木戸がありました。

道標に従い、休暇村に向かいます。
今通った峠は至高山というらしいです。

あまり手入れされていない道で怖いです。

道は頼りないけど、景色はきれい。

細い道を下りていって、

まさか、これが進路かと焦りましたが、

背後にちゃんと道があって、

無事、休暇村奥武蔵に到着しました。

あの心細い車道から峠道に入り、この山(至高山というらしい)を越えて来たんですよね。

駐車場に車を置かせてもらっていますし、くそ疲れて汗だらだらだったので、お風呂に入ってから帰ろうと思っていました。
しかし、玄関に入ろうと思ったら貼り紙があって、「コロナウイルス感染予防のため、土日祝日の立ち寄り入浴は休止させていただいております」だということでした。
駐車場代としてお金を使おうと思ったのに、お風呂に入れないなら使いようがないので、そのまま帰りました。

今回の山行きは、おそらく往復で10㎞はあったと思います。
過去最大の山行きだったでしょう。
11時30分頃に歩き始めて、16時30分過ぎて17時近くに歩き終えたので、5時間くらいだと思います。
で、かなりの時間山道にいましたが、特にクマさんと出くわすこともなかったので、これくらいの山行きならば単独でもなんとかなりそうです。

ただ、今回の山行きで、案内板のない分かれ道をところどころ見かけたので、道迷いには気をつけないといけません。
山地図には読み慣れておかないと、命取りになりかねません。
登山計画書の作成と提出の意義は、こういうことなんでしょう。
次回の鬼姫山回峰行では、もう少し経路設計をしてから行くことにします。

鬼姫山回峰行 第6回 大高取山

どうも、同人結社鬼姫狂 代表の秋元惟史(活動名義・民富田智明)です。

鬼姫山回峰行として越生町の大高取山を踏破してきました。

鬼姫山回峰行とは、武州鬼姫信仰の根本聖地である秩父鬼姫山総本山がある秩父山地と、各地方に点在する鬼姫山支山がある山岳地一帯を自らの足で踏破する山岳修行です。
鬼姫山を取り囲む秩父山地の山々と、各地方の鬼姫山支山がある山岳地一帯の整備された登山道を踏破し、鬼姫山への想いを馳せることによって、鬼姫山三神と心を一体化させ、神秘の萌燃力を授かることを目指します。

大高取山は、越生の中央にあり、越生駅から間近に見える標高376mの山です。
地元の豪族の拠点でもあり、山中には高取城址があり、麓には豪族を祀る越生神社があります。
山の周囲には小規模な寺社が点在し、奥に進んで裏側に回れば景勝地として有名で修験場でもあった黒山三滝があります。
越生町の役場もこの山の麓にあるので、まさに越生の歴史と文化の象徴となる山といえるでしょう。

越生方面は大学時代に黒山三滝に行って以来の2度目の散策となります。
登山のために行ったのは初めてです。
中学高校時代は毛呂山町にある某私立学校に通っていたので6年間は東武東上線、越生線の利用者でした。
が、狭山市からだと西武線で一度川越に出て、東上線で坂戸まで行って越生線に乗り換えて越生まで行くという面倒臭い経路になります。
なので、どう考えても自家用車の方が楽なので、自家用車で行ってきました。

自家用車を中央公民館に置き、まずは麓の正法寺から散策を始めました。

深谷出身の渋沢栄一と縁のあるお寺のようで、門前に旗が立っていました。
山門の額は、山岡鉄舟によるものだとか。
幕末には疎いので、山岡鉄舟がどういう人だかはよくわかりません。

鶏が放し飼いになっていました。

本堂が開いているわけでもなかったので、すぐに駐車場まで戻り、山行きに入りました。

中央公民館の駐車場のすぐ脇が、大高取山の登山道の起点となっていました。
山頂まで2.6㎞です。

道標に、世界無名戦士之墓とありました。
無名戦士之墓は、第二次世界大戦の戦没者を国籍や階級を分け隔てなく祀った納骨堂です。
まったく思いがけずだったのですが、あの有名な心霊スポットがここにあったんですね。
昼間ですし、心霊スポットだからというのではなく、真面目な気持ちで立ち寄ることにしました。

登山というよりも公園の散策という雰囲気が続きます。

公園歩きですが、それでも結構な高さまで来ました。

さくらの山公園だそうです。
私、こういう中途半端にひらがなを使った表記法があまり好きじゃないです。
桜山公園でよくないですか?

ここから登山道らしくなってきます。

心臓破りの木段が続きます。

木段を上がりきったところ。

有害鳥獣捕獲実施中とのこと。

無名戦士之墓の由緒書き。
心霊スポット呼ばわりしていいのだろうか。

納骨堂への石段が続きます。

馬魂碑。

慰霊碑。

無名戦士之墓の建立を発起した人の顕彰碑。

納骨堂前。

納骨堂内部。

納骨堂の上は展望所になっています。
すぐ後ろの壁の中に3階建てで戦死者の遺骨が眠っていると考えると、展望所だからといって行楽気分ではしゃげるところではないですね。

納骨堂の裏手には三界萬霊と書かれた供養塔が。
供養塔から納骨堂の裏手を回っていくと、登山道があります。

ここから本番です。
木が生えているからあまり気にならないけれども、かなりの急斜面です。

ひたすらまっすぐ道が続きます。
ここで、虫除けスプレーを持ってこなかったことに気付きました。
虫刺されが心配です。

心臓破りの坂が始まります。

写真だとわかりにくいですが、木の根が這う急勾配の登り坂が延々と続きます。

 かなり疲れます。

急勾配を登り切りました。
ぜーぜーいってます。

道標に従います。

尾根筋が続きます。

大高取山まで1.4㎞、大体半分来ました。

割と平坦な道が続きます。

心臓破りの急勾配が始まりました。
結構長いです。

まだまだ続きます。

急勾配を登り詰めたところに、むき出しの石灰岩がありました。
白石様といって、信仰の対象になっているようです。
古神道ですね。

さらに登りが続きます。

登ったと思ったら下り始めました。

下ったと思えば、また登り。

奥に山頂部らしい線が見えますが、それが遠い。

また急勾配。

山頂はまだまだ先です。

最期の急勾配が始まったようです。

きつい登りがこれでもかと。
終わりが見えているのに遠い。

きつい登りが終わりました。

右に進むと山頂です。

大高取山の山頂に到達。

標高376m。
ちょうど富士山の10分の1だそうです。

ベンチに座ってぜーぜーいいながら休憩し、しばらく下界を眺めました。
標高自体は、子ノ権現の半分くらいですが、疲れるものは疲れます。
疲労の中で、聖地秩父鬼姫山へと想いを巡らせました。

山に登った以上は下りなければいけません。

回復してから、下山を開始しました。
下山ルートは登山ルートと違うものを選び、虚空蔵尊というお寺を目指しました。

道標のちょうど真ん中あたりの奥に、虚空蔵尊へ続く道があります。

登りの道よりも利用者が少ないのか、細い獣道みたいになっています。
茂みが体に触れるので、ヘビやヒルが心配になってきます。

クネクネ何重にも折れ曲がった細い道を下りると、道標がありました。

虚空蔵尊の方へ進みます。

少し朽ちた感のある展望所。

展望所の先が、なんか不安になるくらい茂みに覆われていました。
利用が少な過ぎて廃道化されていたらどうしようと思いつつも、様子を見に行きます。

下は割りと開けていました。
不安を煽る茂みはあそこだけだったようです。

道標が風化していますが、要は下りたいので、下り道を進みます。

だんだん谷間の沢沿いにあるジャリジャリした小石の多い道になりました。

ロープがある岩場があり、転ばないように慎重に下りました。
下りなのでロープは使いませんでした。

延々と下りていきます。

坂がなだらかになり、開けてきました。

虚空蔵尊まであと1㎞。

来た道を振り返ると、延々と続く道にうへーとなりました。

あまりに人が利用しない道なのか、案内板が朽ちて倒れていました。

ここからは自動車のタイヤの跡が残る林道になっています。
歩きなら広い道なので、安心して進めます。

道沿いは結構な岩肌が迫っています。

虚空蔵尊まで700m。

林道から抜けました。

虚空蔵尊とは書いてありますが、お堂はどこなのやら。
何も見えません。

この公園として整備された斜面の上にあるかもしれないと思い、登ってみました。
結構きつい坂です。

白い建物が見えました。
奥に黒い瓦屋根が見えます。
あれでしょう。

まさに、これが虚空蔵尊でした。
もちろん、本尊は虚空蔵菩薩です。
合掌。
山行きの無事を報告しました。

虚空蔵尊の石段を下りたところ。

謎の石碑。

三満山虚空蔵尊とあります。
昔はここにちゃんと山門があったんでしょうね。

ここから中央公民館の駐車場に戻ります。

分かれ道に灯篭があり、大宮神社500mとあります。
ついでなので行ってみます。

背後には、自分が踏破してきた大高取山が見えます。
あそこから来たんですよね。

お地蔵さん。

謎の石碑。

あと300m。

あと100m。
奥の森の中でしょう。

ターミネーター2のオープニングのような、朽ちた公園。

大宮神社に到達。
埼玉県の新幹線駅があるあの大宮とは関係ないようです。

大宮神社をお参りした後、大高取山の位置を照らしてなんとか駐車場の方に向かいます。

見知らぬ住宅地を延々と進むと、お寺が見えました。
けれども、最初に行った正法寺とは違うお寺のようです。

法恩寺ということです。
正法寺と同じく、渋沢栄一の旗が立っていました。

本堂脇には、四国八十八霊場御砂場がありました。
これを踏むと、四国八十八箇所巡りをしたのと同じ功徳が得られるそうです。

昔は歩くしかなかったので、隣村に行くのだって大変な手間です。
ましてや遠い四国や伊勢や熊野や富士を詣でるのは、並大抵の苦労ではないでしょう。
なので、昔の人は、「実際には行っていないけど、行ったことにする」お手軽技を考案しました。
そもそも、お坊さん自体、修行や日々の勤行の中で「とても読み切れない膨大なお経を読んだことにする」作法をやっているわけですから、庶民向けにお手軽技がないはずがないです。

自分は、この砂場を踏んだので、四国八十八箇所巡礼をしたことになりました。
だけど、いつか本当にやってみたいですね。
何日かかるんだろう。

ま、秩父観音霊場巡りの方が先でしょうが。

法恩寺を出ると広い道に差し掛かり、山の中に無名戦士之墓が見えました。

だいぶ駐車場に近づきました。

道をまっすぐ進むと、越生神社がありました。
地元の豪族を祀るものだそうです。
標高170mくらいの山の上には奥宮があり、そこは豪族の居城の高取城址だそうです。
案内板がなかったので、高取城址には行っていません。

境内には、勧請された子ノ権現がありました。
2日前に行ったばかりなのに、なんという偶然。

お稲荷さんもありました。

越生神社の参拝をして、駐車場に向かいます。

なんとなく、多分あの山の上が奥宮のある高取城址なんじゃないかと推測しています。

駐車場を一度通りすぎて、公民館の裏手に沿って山に近づくと、そこに岡崎薬師がありました。
地元の豪族の越生氏の分家岡崎氏の居館跡で、守り本尊を祀ったものだとか。

裏にはお稲荷さんがあります。

山ですから、お狐様は当然いるでしょうね。

この時点で、17時30分を過ぎていました。
他にも散策したいところはありましたが、次の日が出勤で朝早いので、これで切り上げて帰宅しました。
これで、大高取山踏破は完了です。

疲れたので、以前から気になっていたゆうパークおごせで風呂に入ってから帰ろうとも思いましたが、お金もないし、夕食を考えると19時前には帰っていないとまずいので、立ち寄り湯はやめました。
ゆうパークおごせは、町営から民営化されてリニューアルし、なんと露天風呂もあるそうです。
次に越生方面を散策するときは、試しに行ってみようと思います。

次の鬼姫山回峰行は、高山不動尊と関八州見晴台にしようかと思っています。

登山でもなんでもそうですが、まず発起人が自分でやっていないと仲間集めの説得力がないので、手間暇かかっても、目に見える形で活動報告はブログにあげていきます。

まだ自分は登山初級者ですから、富士山も剣岳も槍ヶ岳も木曾御嶽も白山も立山も登ったことないです。
しかし、戸隠山も妙義山も八海山も榛名山も赤城山も、神社の拝殿だったり、自動車で入り込める散策路まではかなりの数をこなしているので、山頂踏破に限定しなければ、本当の初心者からすれば十分に山先達と自称してもいいんじゃないでしょうか。
富山県と北海道以外は、一度は一人旅で行っていますし。

鬼姫山回峰行 第5回 子ノ権現

どうも、同人結社鬼姫狂 代表の秋元惟史(活動名義・民富田智明)です。

本日、鬼姫山回峰行として、飯能の古刹・子の権現に行ってきました。

子の権現は、正式には天台宗大鱗山雲洞院天龍寺といい、標高640mの山の上にある、武蔵野三十三観音霊場32番札所に指定されている神仏習合のお寺です。
縁起によると、911年、子ノ聖というお坊さんが初めてここに十一面観音を祀って天龍寺と称して開き、弟子の恵聖上人が子ノ聖を大権現と崇めて子ノ聖大権現社を建立した、というのが始まりのようです。
子の権現の名称の由来である子ノ聖は、生誕が子年子月子日子刻であったため人々に子ノ日丸と呼ばれていたそうで、それが子ノ聖という通称となったそう。
子の権現は、子ノ聖が最期に「我、化縁につきぬれば寂光の本土に帰るべし。然れども、この山に跡を垂れて永く衆生を守らん。我登山の折、魔火のため腰と足を傷め悩めることあり。故に腰より下を病める者、一心に祈らば、その験を得せしめん。」と誓いを立てたことから、足腰守護の神仏として信仰されています。
足腰守護の神仏ということから、境内には巨大な草鞋があり、このお寺の名物となっています。

さて、この子の権現参拝は、鬼姫山回峰行の一環としての参拝です。

鬼姫山回峰行とは、武州鬼姫信仰において神聖視される秩父鬼姫山に思いをはせるために秩父山地の山々を自らの足で踏破することを通じて、己と向き合い、足腰を鍛え、信仰対象である鬼姫山三神と心を一体化させ、神秘の萌燃力を感得することを目指す鬼姫狂団の実践山岳修行です。

子の権現は足腰の神仏であり、また観音霊場でもあるので、観音菩薩と勢至菩薩を本地仏とする神仏習合の武州鬼姫信仰にとっては相応しい行場であると言えるでしょう。

ところで、子の権現は、小学4年生の遠足で一度登っています。
なので、およそ25年ぶりの訪問ということになります。
小学生の頃はとにかく運動嫌いだったので、遠足の登山がとにかく辛かったという思いしかなく、どんな道だったのかは全然覚えていません。
そんな自分が、寺社巡りの延長で山登りに興味を持つようになるとは、人生わからないものです。
ま、今でも山登りが楽勝と思うことはないですが。
物理的にきついものはきついです。
でも、今回は「自分の意志でやる修行」なので、いい意味でのきつさです。

子の権現への入山口は、国道299号線の吾野駅から少し秩父寄りにある東郷公園秩父御嶽神社の境内地の脇にあります。
秩父御嶽神社もいい感じの神社ですが、ここは大学時代に訪問済みですので、今回は省きました。
自家用車を秩父御嶽神社の駐車場に置いて、山行きを始めました。

懐かしい。

なんかピンボケしていますが、ここから子の権現に向かう関東ふれあいの道が始まります。
子の権現3.8㎞と書いてあります。
前回登った龍崖山が1.2㎞なので、3倍以上ですね。
往復7.6㎞です。

関東ふれあいの道の案内板がありました。
一都六県の共同で整備されているようです。

渓流に沿って道が続きます。
この先の先の先に子の権現があります。
クマやヘビやハチが出ないことを祈りつつ、進んでいきます。
一応、熊除け鈴をリュックにつけ、黒い服は避け、肌の露出する部分には虫除けスプレーをしています。
もう暖かい季節なので、普通にクマやヘビやハチが活動しています。
山は野生動物の縄張りなので、人間の方こそ部外者です。
最低限の自衛策はやって当たり前なので、そこは舐めずにやります。

江戸時代末期の古民家を利用した茶店の看板がありました。
昭和7年創業ということは、当時はまったく舗装されていなくて、江戸時代の峠道の雰囲気そのままだったんじゃないでしょうか。

謎の石碑。
お坊さんの姿が描かれていて、講の字があるので、子の権現参拝の記念碑的なものでしょう。

お地蔵さんを発見。

謎の石碑というか墓石を発見。
陸軍兵長勲八等功七級~とあるので、明治期以降の兵隊さんのものですね。
周辺の民家は空き家も目立つ感じなので、供養されているのかどうか……。

滝が見えてきました。
打たれてみたくなるいい感じの規模です。

滝のすぐ先にお堂がありました。

不動尊とあります。

不動明王を祀るお堂の脇にある滝なので、間違いなく修験者による滝行が行われていたはずです。

お堂の脇には風化した石仏群が。

先程看板があった茶店の先に道標があり、子の権現1.8㎞とあります。
この時点で踏破率52%。
そこまできつくないなだらかな舗装路を歩き続けて2㎞は稼いでいました。

あの茶店で(すれ違い困難な)車道は終わり、いよいよ道が狭くなってきました。

謎の石碑。

茂みの奥に巨石があり、そこに小さな祠がありました。
古神道の面影があります。

渓流に橋が渡してあり、舗装路が終わります。

子ノ権現天龍寺と刻まれています。

降魔橋と書かれた石碑があります。

子ノ聖は、山行きの途中で魔物に襲われたと伝わっているそうで、ここがその場所なのでしょう。
で、橋の先が寺の領域ということは、この川が聖邪の境界ということでしょうか。

ここからが本番です。
険しい石段が始まります。
ここから約45分と書いてありました。

石段を登り切った脇に祠がありました。

祠の先は、めまいがするような登り坂です。
石段を登った時点でもう足にきていたので、「なぜこんなところに来てしまったのか、今すぐ引き返そうか」と弱気な自分が出てきて、雑念に支配され始めました。

祠まで寄り道する気力もなく、その場から遥拝して、先に進みました。

どこまでも延々と続く心臓破りの坂。
ところどころ木の根が張り出していて、天然の罠になっていました。
写真を撮る余裕もなくなってきました。
何度も石に座って小休止して、水分補給して、一歩ずつ進みました。

実は、山行きを始めたのが11時30分ころで、お昼を挟んでいました。
しかし、出かけるときに軽食を買い忘れてしまったので、栄養補給ができませんでした。
水分はペットボトル500mlのお茶を2本持って来ていたので問題ないですが、栄養分が足りなくなる心配がありました。

登山は想像以上にエネルギーを必要とする高負荷な運動なので、水分だけでなく栄養分の補充も欠かしてはならないとされます。

軽食を忘れたことがあだになり、バテやすい状態になっています。
自分のミスとはいえ、想像以上にきつい登り坂で燃料不足です。

だんだん開けてきたのか、光が差していました。

杉の木の向こうから後光が差しています。
神仏が呼んでいます。

遠くに白いガードレールが見えました。
車道です。
だが、まだまだ先はあります。

あと少し。

ついに車道に辿り着きました。

昔、遠足で子の権現に来た時の、散々山道を歩かされた末に車道に出て「初めからバスで来ればよかったじゃん」とがっかりした記憶だけが残っています。
その、思い出の車道との交差部分です。

子ノ権現400mとありました。
まだ先はあります。

教育地蔵というお地蔵さんが立っていました。
そこから最後の登り坂が続きます。

この時点で限界に来ていたので、お地蔵さんの前にある謎の板を思い切りひじ掛けにして、回復を待ちました。
行儀悪いけれども、ここまで頑張ったのだから、お地蔵さんは許してくれるはずです。

最後の登り坂を進み、建物が見えてきました。

遂に、子ノ権現の門前に出ました。
小学生の遠足で来たことあるのに、ここまできつい道とは……。

由緒書と一緒に巨大な御神木があります。

鳥居が見えます。
門前に茶店がありますが、緊急事態宣言中だからか、平日だからか、営業はしていませんでした。
うどん、そば、アイスクリームという言葉に食欲を喚起されます。
何か食べたい。

鳥居をくぐって、灯篭の先に山門が。

山門の先に、ちょっと等身の低い仁王像が。

詳細な由緒書きが。

手水舎で清めて、

本堂でお線香を買って参拝し、一応ゴールです。

名物の巨大草鞋。

胸ちらしたえっちい女身の観音菩薩像。
観音様って、元々は男身だったのに、だんだん女性化していって、民間信仰のレベルでは慈母観音というように圧倒的に女身の方が多いです。
しかも、服をはだけていたりして、結構エロかったりします。
神聖な存在なのにエロい、というのがいいんでしょうね。
観音様はインドの土着の神様が仏教に取り入れられた説もあるようですが、インド神話の女神もトップレスだったりしますし、手塚治虫の「ブッダ」に登場する女性がそろってトップレスでしたから、古代インドの服飾文化がそのまま反映されているのでしょう。

武州鬼姫信仰の主祭神であるお凜様は観音菩薩と勢至菩薩の化身なのですが、観音菩薩そのものが女性化されてしかもエロかったりするので、勢至菩薩も観音菩薩の普門示現のような変身能力があって女性化してエロくなれると仮説を立てて、お凜様が女神でありながらエロいことに寛容だったりする根拠にしています。

小さな祠に恵比寿様。

本堂の奥に閻魔堂が。

閻魔堂の脇から奥の院に続きます。

閻魔堂の奥に登ったところに地蔵堂が。
一説によると、地獄の閻魔様は、お地蔵さんの化身であるとのこと。
ウィキペディアに書いてありましたが、根拠となる経典はわかりません。
ただ、こうして閻魔堂と地蔵堂がセットになっているところを見ると、そうなのでしょう。

地獄というのは極楽と表裏一体なので、地獄を仕切る閻魔大王が地蔵菩薩の化身だとすれば、地獄の極卒である鬼たちも「罪を犯したものを懲らしめて改心させるために、あえて恐ろしい鬼の姿となっている菩薩」だと考えてもおかしくありません。

そのため、極楽を仕切る阿弥陀如来の側近中の側近である観音菩薩と勢至菩薩が地獄の極卒の頭領であり、娑婆での武力行使の権限を握って、娑婆に拠点を設けて罪を犯すものを直接的に地獄に叩き落す役目を担っている、それが鬼姫山のお凜様である、と、鬼姫狂では考えています。

奥の院に登ると、まず鐘楼が見えました。

多くの供養塔が立っています。

ほとんど風化していますが、これは法華一千部供養塔と書いてあります。
つまり、法華経を1000部写して納めた記念ということでしょう。
途方もない労力ですね。

奥の院には釈迦堂があったのですが、うっかりして釈迦堂そのものの撮影を忘れました。
格子戸の隙間から、中の仏像だけ撮りました。
南無釈迦牟尼仏。

奥の院からの眺望はよく、どうやらスカイツリーが見えるようです。

さすが、640mの山の上だけあって、絶景です。

雄大な秩父山地の山々を眺めつつ、聖地鬼姫山への想いを強めました。

これで、子ノ権現参拝は終わりです。

山に登った以上は下りなければいけません。

下山ルートは同じ道の逆戻りなのですが、あれだけきつかった道が、下山だと楽勝も楽勝で、あっという間に駐車場まで戻ってしまいました。
まあ、一昨日の雨のせいでまだ道が濡れていたので、何度かずるっといって怖かった場面もありましたが。

駐車場に戻った頃には、15時30分くらいでした。
お金がないので日帰り温泉に寄ることもなく、まっすぐ帰宅しました。

次の鬼姫山回峰行は、同じく吾野あたりにある真言宗の古刹・高山不動尊と関八州見晴台にしようかなと思っています。

ちょっとずつ歩行距離を長くしていきます。

鬼姫山回峰行 第4回 龍崖山

どうも、同人結社鬼姫狂 代表の秋元惟史(活動名義・民富田智明)です。

運動のために、隣町飯能の龍崖山に登ってきました。
龍の崖の山というかっこいい名前ですが、どうも戦国時代に地元の豪族大河原氏が拠点とした大河原城の跡地であるとのこと。
つまり、山城ですね。

鬼姫狂的には、これは鬼姫山回峰行の実践でして、宗教的な意味があります。
鬼姫山回峰行とは、武州鬼姫信仰で神聖視される秩父鬼姫山へ想いをはせるために秩父山地の整備されている登山道を自ら踏破することによって、足腰を鍛え、鬼姫山三神と心を一体化させて神秘の萌燃力を授かることを目指す山岳修行です。
まさに、21世紀の新しい修験道の様式といえますが、修験道は歴史的に真言宗や天台宗の流れをくむため、鬼姫狂団としては正式に修験道と名乗ることはありません。

また、この時代に本格的な山伏のような恰好をしていると、かえって変な人のように思われるため、鬼姫狂団では、鬼姫山回峰行をやるときは一般的な山歩きの服装をしていれば問題ないと考えています。

さて、自家用車を龍崖山公園の駐車場に置いて、山行きを始めます。

なんか巨大な放水路が見えました。

隣町なんですけど、こう見ると立派な観光地にしか見えません。
武州西部入間地方は、山林を観光資源にするしかないです。
市街地開発して都会派ぶる必要はありません。
むしろ、もっと原野を復元して自然を売りにした方がいいと本気で思います。(広大な土地で合戦をする時代劇を撮りやすいから)

入山口。

登山道が始まります。
多峯主山より傾斜がきつく、足にきます。

傾斜のきついところを過ぎて平坦な尾根のようなところに出ました。

すぐに心臓破りの傾斜が始まり、つかまるためなのかロープが通してあります。

熊こえー。

傾斜を登りきったところに休める場所が。

まだ3分の1。

登ったはずなのに下り始めます。
結構下ります。
傾斜のきつい斜面に頼りない細い道が続いていて、結構怖かったです。

下りきったところに谷間を渡す橋があり、また上り坂です。

大体中間点よりちょっと遠いくらいですね。

ハエみたいな虫がまとわりついてうっとうしかったです。
ハチじゃないからいいけど。

先が開けてきた感じです。

謎の巨石を発見。
祠などはないので何のいわれもなさそうですが、私はここに神を感じたので、拝みました。

開けた先は、展望所になっていました。
一応、秩父山地が見渡せるのが売りのようですが、下の工業団地の方が目立ちます。

展望所のすぐ後ろに燧山(ひうちやま)とあります。
今までの道は、龍崖山というよりも、そこに至る通過点の山のようです。
渡し橋を越える前の最初の山は何山なんでしょう。

ここから、激しく下り始めます。
結構急なので、怖かったです。

あと260m……山道の100mは長いです。

下りまくったと思えば、また上りまくりです。

開けてきました。

あと130m。

人工的に切り開いたような感じになっています。

岩を削った後が明らかに確認できます。
ここは山城だったとのことなので、これは敵の侵入を阻む人工的に切り開いた崖「堀切」の跡でしょう。

このすぐ上が龍崖山の山頂です。
息がぜえぜえ、汗だらだらです。

標高246m、歩行距離1200m……直線距離の4倍以上。

飯能市街を見つめる謎の木彫り像。
お地蔵さんではないです。

竹筒覗き。
それぞれ、武甲山、天覚山、顔振峠、あとなんだったっけ。

大河原城址の地形図がありました。
特にそれ以外の歴史の案内板はなかったです。
やはり、さっきの人工的な崖は堀切のようです。

こちらの道が、大河原城時代からの居館や大手門に続く本来の登山道のようです。

大手門に向けて800mの下山を始めます。
この曲がり角の先で、ヘビが茂みに逃げるのを見ました。

急こう配の長い坂を下り続けます。
この時、左側の茂みの奥からがさがさ音がして、シカのような生き物が5頭ほど走り去るのが見えました。
シカかどうかはわからないですが、何か軽やかな動きの生き物です。
こんな身近な山でも、いるんですね。

広い平らなところがあります。
大河原城の居館があったところだそう。

居館跡からさらに下ります。
振り返ると、めまいがするような道です。
ここに城を建てて籠る方も籠る方ですが、攻める方も攻める方です。
昔の人は健脚だったんですね。

入山口が神社になっていました。
村社 軍荼利神社とのこと。
城址って、結構神社になっていたりするんですよ。
生まれの地の柏原ニュータウンにも城山砦跡(よく考えると二重表現……。マニアは柏原城というらしい)というのがあって、曲輪跡にお稲荷さんがあります。

おそらく、当時はここに大手門があったのだと思います。
で、城址は神社になっていることが多いのですが、山城では当然戦をやるわけで、戦死する人も出るでしょう。
だから、城としての機能が終わった後、大昔に地域の人が祟りを恐れて、慰霊のために神社を祀ったということなんだと思います。

ここから歩いて駐車場まで戻ります。
前方に見えているあの山の向こうです。

最寄りのバス停がありました。
隣町なのに、信じられない本数の少なさ。

飯能って、過疎化が急速に進む埼玉県の対策地域に入っているそうで、何年か前に、国際興業バスの名栗路線の廃止の話も聞いたことがあります。
地元の人の反対運動でかろうじて山間部のバス路線が生き残っているそうで……。

自分も日本全国色々なところに一人旅をしてきたのですけど、公共交通の脆弱なところというのは、どうしても移動が不便になるので、遊びに行くにも苦労することが多くて訪問対象から除外することが多いです。
で、歴史的な遺物や風光明媚な景勝地は、基本的に市街地から離れた山間部にあることが多いので、公共交通が弱いと、「行ってみたいけど、時間の都合で行けないから行かない」となりがちです。

で、山間部の田舎においては、地元の人は自家用車を持っているのが当たり前なので、公共交通を使うのはむしろ観光客が多いと思います。
なので、山間部の公共交通というのは、地元の人の足代わりというよりも、むしろ観光需要を強化した方がいいのだと思います。
とはいえ、乗る人が少ないのに1日の本数が多いと大赤字になるので、公共交通の便利さと採算性の難しさはそこなんでしょうね。

生まれの地である柏原ニュータウンは、さすが西武不動産が造成しただけあって、10分か15分に1本は必ず西武バスが走っているので、小さい頃からそれが路線バスの当たり前だと思っていたところがあります。
西武線だって、10分か15分に1本は必ず電車が来ますし。

一人旅を重ねると、小さい頃からの「当たり前」が全然当たり前じゃないと気付くことばかりなんですが……。

時刻表を気にしなくていいというのが自家用車ですが、公共交通に頼るべき局面もやはりあります。
公共交通の乗務員というと、社会的に下層扱いで賃金もあまり高くなく、「進んでやりたがらない仕事」とされています。
けれども、公共交通がないと、それはそれで不便で困るんじゃないでしょうか。

公共交通の乗務員がもっと高待遇になって、なおかつ運行本数が増えて移動が便利になれば、「進んでやりたがる仕事」にもなり、観光促進にもなるんでしょうけど、それは理想論なんでしょうね。

何年かかるかわからないし、自分が生きているうちに叶うかどうかもわかりませんが、自分は、鬼姫山三神の依代として、武州鬼姫信仰の提唱者として、鬼姫狂団の創始者として、武州西部入間地方の山間部の観光資源化に少しでも役立てれば本望です。

山に入れば、「自分がいかに小さい存在か」という思いにかられます。

山に入れば、ちょっと足を滑らせただけで、動物に襲われただけで、よくて大怪我、下手すりゃ簡単に死んじゃいます。

自分なんて、前人未踏の世界最高峰・鬼姫山の一合目にすら立てていません。
でも、人類で初めて鬼姫山に挑み、誰も先達がいないところに道を作っているのは、紛れもなく自分です。
そもそも道が整備されていないのだから、時間がかかるのは当然。

鬼姫山に挑んでもいないような外野が色々言ってくることもあるでしょうが、外野はあくまでも外野、この世界の片隅にいるその他大勢のエキストラです。

鬼姫山に挑む仲間を探し始める段階に、ようやく入ったのだと信じます。

興味のない人に押し付けるつもりはありません。

純粋に鬼姫山に挑みたい人だけが、鬼姫狂団に入ってくれればそれでいいのですから。