どうも、同人結社創作信仰鬼姫狂総本部 代表の秋元惟史(作家名義・民富田智明)です。
絶対に見るべき映画第13弾は、「用心棒」(1961年)です。
今更私ごときが語るべくもない、巨匠黒澤明監督、三船敏郎主演の傑作時代劇です。
とにかく、三船敏郎と、悪役の仲代達也が、ひたすらかっこよすぎます。
内容は、空っ風吹き荒れる上州の宿場町にふらりとやってきた凄腕の浪人が、勢力争いをしている二つのやくざ一家に対して用心棒として売り込みつつ見限るのを繰り返して渡り歩き、巧妙に共倒れをさせていくというものです。
この「用心棒」は、私が初めて見た黒沢映画で、一番繰り返し見ている殿堂入り映画です。
いわば、私にとっての時代劇の教科書です。
最初に「用心棒」を見たのは、映像学科3年生の「シナリオ演習」の講義でした。
たぶん、私の世代やさらに若い世代なら同じだと思いますが、昔の白黒映画には「古い」というだけで抵抗があり、普段の生活では見ることがなかなかないでしょう。
ましてや、黒澤明という巨匠の映画なので、「巨匠」というだけで変な先入観があり、小難しい退屈な映画なのではないかと思い込んでしまいやすいのではないでしょうか。
私はそうでした。
完全に食わず嫌いでした。
大学の授業の中で「用心棒」がプロジェクターを通して大映しされてみると、今までの認識がいかに無知なものであったのかと、その衝撃に打ちのめされました。
まず、冒頭からしてかっこいい。
山を背景に歩いていく三船敏郎の後ろ姿がどアップで映り、そこに画面の横幅一杯にドーンと「用心棒」の題字が出て、主題曲が流れだし、タイトルロールが始まります。
単に歩いているだけなのに、それだけですでに映画の世界に引き込まれている自分がいます。
そして、舞台となる宿場町が、まるで西部劇の町のように広々としていて、とても日本の街道筋の宿場町には見えません。
大画面で見るために設計されたスケール感のあるオープンセットに圧巻です。
水を飲みに立ち寄った農家のオヤジ、町の状況を聞き出した飯屋のオヤジ、棺桶屋のオヤジ、お調子者の十手持ちと、話に絡んでくる面々がいちいちキャラ立ちしていて、会話場面がまったく飽きません。
状況説明役の飯屋のオヤジ(東野英治郎「水戸黄門」)がしゃべっているのを見ているだけで楽しい映画なんて、そうそうないです。
なんといっても、危なさ満点のならず者の面々の強烈な印象です。
怪力の巨人がいるは、頭が弱い暴れん坊の太っちょがいるは、ふんどし一丁のひげ面がいるはで、見ているだけで「斬りたくなる」人々ばかりです。
そうこうしているうちに、浪人の凄腕の剣が、ならず者をバッタバッタとなぎ倒します。
かっこいい!
そこに、スカーフを巻いてリボルバー拳銃を持った横浜帰りの仲代達也が現れます。
時代劇なのにリボルバー拳銃です。
考証無視で、かっこよさ重視です。
横浜帰りということにしておけば、舶来の銃を持っていても説明がつきます。
三船敏郎の剣術と仲代達也の拳銃の対決が、宿場町のど真ん中で展開されます。
そう、この「用心棒」は、日本の時代劇という体裁をとっていますが、ジョン・フォードなどのアメリカの西部劇を相当に参考にしているのです。
だから、リボルバー拳銃との対決がクライマックスなのですね。
「荒野の用心棒」など、「用心棒」の公開後、黒沢映画を参考にして(パクって)作られた外国の西部劇が賛否を巻き起こしますが、「用心棒」そのものが西部劇を下敷きにしたものであって、もともと時代劇は西部劇と相性が良かったのです。
私は、この映画をきっかけに昔の日本映画の魅力に取り憑かれ、素浪人映画と任侠映画を中心にむさぼるように日本映画を見るようになりました。
この、昔の日本を描いているように見えて、実は日本風の無国籍な架空の町での戦いを描くという「用心棒」の手法は、私の「鬼神童女遊侠伝」シリーズの世界観に多大な影響を与えています。
心理学科時代、所属していた人形劇団の後輩で、役者志望で養成所に通っていたのがいたのですが、役者志望でありながら名作映画の観賞経験があまりにも乏しくて、映画史に残るスター俳優をまったく知らなくて、ちょっと不安に思っていました。
後輩には「子連れ狼」や「眠狂四郎」の題名が通じなかったので、たぶん「用心棒」も通じなかったと思います。
後輩いわく、「アッキーさんはレベルが高すぎるんですよ」だそうです。
脚本創作や映像制作を志した者が古今東西の先行研究するのは当たり前すぎるんですけどね。
映画は小さい頃から好きで見ているだけなのですが。
「用心棒」は、悪党の巣食う町に強いよそ者がやってきて壊滅させる物語のお手本です。
「現れて、去っていく英雄」のお話を描きたいならば、今すぐにでも見ることをおすすめします。
【予告編】