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鬼姫狂概要


企画説明

「鬼神童女遊侠伝」シリーズとは 作品の展開方法 企画の分類方法
世界観の概要 時代劇を志す理由 地場産業の発展に結び付けるために

「鬼神童女遊侠伝」シリーズとは

「鬼神童女遊侠伝」シリーズは、民俗信仰「武州鬼姫信仰」を題材とする空想霊武劇です(現代劇、時代劇及び未来劇を含みます)。
日本の昔話の世界を勧善懲悪による本格的な娯楽活劇に昇華させた作品であり、初めから長期的なシリーズ展開を想定することによって、次世代の定番時代劇として文化史に名を轟かせることを目指します。

基本的な物語は、「武州の平和を守る勇猛で可憐な童女姿の鬼神様が、山狗と山鴉を従えて、民を苦しめる極悪非道な妖賊(徒党を組んで悪事を働く妖怪。動植物や無生物を擬人化したもの)を退治する」というものです。

武州(埼玉県、東京都、神奈川県の一部)の平和を守るというのがもっとも根底にある要点ですが、それでいて、実は日本全域、果ては世界全域も舞台の範疇に包括されています。

その上で、主役以外は共通点のない一話完結型のオムニバス形式を採用し、作品ごとの整合性を考えずにシリーズ化できるようにしています。

少なくとも、日本国内47都道府県において1741市区町村があるので、それだけの「鬼神童女遊侠伝」シリーズが民間伝承として成立することになります。

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作品の展開方法

「鬼神童女遊侠伝」シリーズは、民富田智明が手掛ける基幹作品である映像紙芝居や実写映画を主軸とし、その他の副次的作品として、絵本や漫画、挿絵小説という手法によって物語を描きます。
また、このシリーズはキャラクターを前面に押し出しているため、塗絵や電子遊戯物(ゲームプログラム)、書画や彫刻などの美術品、文房具等のキャラクターグッズにも派生させることが容易にできるものになっています。

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企画の分類方法

「鬼神童女遊侠伝」シリーズは、公式企画と公認企画に大別されます。

【公式企画】

原作者である民富田智明が立案した作品企画です。
絵本や映像紙芝居や実写映画を中心に展開をしていく予定です。
この公式企画が、著作権の源泉となる正規の作品群として扱われます。
公式企画での人材募集については、「人材募集」ページに適宜告知をしていきます。

【公認企画】

創芸師登録をしている個人作家が独自に立案した作品企画です。
原作者の意向を介さない純粋な二次創作活動であり、活動倫理規定の範囲内で自由度の高い作品展開になることを想定しています。
この公認企画は、当結社が管理販売するものですが、著作権の源泉となる一次作品群とはなりません。
創芸師登録については、「創芸師登録募集」ページをご覧下さい。

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世界観の概要

【世界観の全体像】

「鬼神童女遊侠伝」シリーズの世界観は、古来から伝承されている昔話の世界を踏襲しています。

現代日本のような無宗教という概念はまるでなく、宗教が日常生活に浸透していて、神仏に対する信仰心と妖怪変化に対する畏怖心が当たり前のようにあった時代を背景にしています。

その時代に生きる人々は、誰もが異界に住む神仏や妖怪がいるものと信じていますが、同時に、ほとんどの人は実際に異界の存在と接触したことはありません。そのため、ほとんど形骸化した年中行事として、祭祀や供養、魔除のしきたりが集落や家ごとに残されています。

社会構造は、歴史上の日本と同一のものであり、基本的な歴史資料があれば再現可能なものです。

【鍵となる概念】

この世界観において重要な概念は、「来訪神」と「神儀」というものです。
「来訪神」とは、時を定めて人里に現れ民家に来訪する神のことです。
家々には、古くから、来訪神と酒食を共にして歓待するというしきたりがあります。
「神儀」とは、神が民家に来訪する際に行われるとされる儀礼であり、土間に立ち、独特の言い回しで神の素性を明らかにして来訪の目的を伝える挨拶口上です。
その口上の様子は、博徒や的屋が行う挨拶である軒下の仁義に似ているとされ、歴史的に仁義口上の由来ともいわれています。
家の主は、神前で正座して床に手をついて控え、口上の応対として名前と生業を明らかにし、神を招き入れる意思を表明しなければなりません。
家の主と嫁は、この神儀のしきたりを代々受け継いており、間違いのない応対ができなければならないとされています。
神々同士の挨拶にも別の神儀が行われるようですが、その様子は定かではありません。

【妖賊について】

妖賊とは、徒党を組んで悪事を働く妖怪変化のことで、動植物や無生物が妖力を持って擬人化した怪人を指します。
強大な力を持つ一体の親分格と、親分格の妖力によって生み出された複数の子分格によって集団が構成され、親分の妖力の強さに応じて子分の生成数が規定されるといわれています。
妖賊は基本的に刀や弓矢などの原始的な武器を持っていますが、銃火器や爆弾を持ち歩く者もいます。
妖怪なので超自然的な存在であり、修行を積んだ徳の高い聖職者以外の人間には気配を察知できず、どこから姿を現すのか予測ができません。
退魔法を習得している都の特別で優秀な術者は別として、生身の人間には到底歯が立たない化け物とされています。
妖賊は、妖力という負の超自然的な力によって生きているため、人間によって作られた武器兵器では倒すことができず、神力という正の超自然的な力を込めた特別な武器兵器を使うことによってのみ倒すことができるとされています。

【超自然的な武器兵器】

この世界観において、土地の民を守る鎮守神や、土地の民を脅かす妖賊が使用する武器兵器は、人間が発明した実在の物を模した刀剣や弓矢、銃砲、爆弾となりますが、その武器には神力や妖力という超自然的な力が宿っており、それをもって鋭い破壊力を発揮しています。
特に、銃砲や爆弾について、人間が使用する通常の火薬式ではなく、火薬の代わりに神力や妖力を込めて起爆する特殊な仕組みとなっています。
そのような超自然的な銃砲や爆弾なので、銃砲には装弾数という概念がなく壁などに当たった際の弾痕も残らないとされており、また、爆弾の発破時は標的のみを確実に殺傷破壊し、周辺の自然物や人工物に影響を与えないといわれています。
従って、鎮守神と妖賊がどれだけ大規模で激しい戦闘を繰り広げたとしても、何も痕跡が残らないそうです。
その上、その超自然的な場には結界が張られているといわれており、銃声や爆音など、あらゆる音がかき消されてしまい、周囲の住人にはまったく感知できないようです。

【武州鬼姫信仰】

「武州鬼姫信仰」は、武州入間地方を中心に、武州全域(現在の埼玉県、東京都、一部神奈川県の領域)に伝えられている民俗信仰です。
「秩父鬼姫山(所在地不詳)」に住むとされる、邪悪な妖賊から武州の平和を守る勇猛で可憐な童女姿の鬼神様を、熱心に信仰しています。

歴史はかなり古く、室町時代には成立していたとされています。
現存する唯一の史料は、江戸時代末期に描かれたとされる「鬼神童女物語絵巻」(作者不詳・個人蔵)です。

鬼神童女物語絵巻1

そこには、三度笠を被って道中合羽をまとった、立派な二本角を持つ紅白装束の鬼神様が描かれており、ご眷属としてお狗様とお鴉様が描かれています。
その絵には「花吹雪凜凜志乃大鬼姫神」「遠吠猛牙突立大狗神」「夜鳴天空飛翔大鴉神」という神名が記されているため、この絵の神様を指しているものと考えられています。

鬼神童女物語絵巻1
鬼神童女物語絵巻1

絵巻の本文を読むと「武州総鎮守秩父鬼姫山三代目~」という記述があり、「今は昔、奈良の都栄えたりし時、関八州に妖賊共現れ、諸民為す術なくことごとく虐げられたりけり。鬼姫山におはしましけるお凜様の祖母なる鬼神様、これを知り甚だ怒りたまひて、国内を鎮め守るべく妖賊共を討ち取らんと勇み立ち たまひけり~」という記述もあります。

鬼神童女物語絵巻1
鬼神童女物語絵巻1
鬼神童女物語絵巻1

つまり、この絵巻に登場する鬼神様よりもさらに昔の奈良時代から、鬼神様が三代に渡って武州の平和を守り続けてきたことがうかがえます。

この絵巻によると、鬼姫山三代目の時代は室町時代末期(1500年頃)から江戸時代末期(1800年頃)とされていますが、これが描かれた時点で存続していると考えられています。

「鬼神童女遊侠伝」シリーズは、この世界観の背景を前提とし、鉄砲伝来以降の武州入間地方を中心とした妖怪退治物の勧善懲悪譚として生み出されました。

これが、当結社が公式に開示できる唯一の世界観設定です。

この世界観がどれだけ拡張されていくのかは、民富田智明自身も予想がつきません。

なお、このシリーズの主人公であり、当結社の信仰対象である鬼神様についての詳細は、「鬼姫狂概要」ページの「信仰対象」に記載しています。

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時代劇を志す理由

「地元狭山市を中心とした、武州入間地方を舞台とする空想時代劇(派生として現代劇及び未来劇を含みます)を生み出し、地元と日本の文化の発展に貢献したい」というのが、「鬼神童女遊侠伝」シリーズを構想した根本的な気持ちです。

民富田智明は、時代劇という日本独特のアクションジャンルが好きです。
幼い頃に「桃太郎」や「一寸法師」などの昔話に親しんだことから日本の歴史に興味を抱いていたため、必然的に時代劇を生み出すということに創作としての魅力を覚えるようになっていました。

日本人として生まれたからには、チャンバラのかっこよさを追求していってこそ、真に世界に発信できるオリジナリティが出てくるのではないかと考えています。

日本が国策として「クールジャパン」構想を打ち出し、積極的に海外へコンテンツを発信していこうという気風が出てきました。
そこで、西洋かぶれのように、ハリウッド映画の真似みたいな作品を出したところで仕方がないのです。

日本は銃社会ではないですから、どう逆立ちをしたって、現代劇で鉄砲を撃ちまくるようなアクションは嘘臭くなります。
日本で銃を持てるのは、警察と自衛隊とヤクザしかいませんから、どうしてもハリウッドのような派手なアクションを描くことは限度があります。

また、ライトノベルなどに多い現代ものの学園ファンタジーは、日常生活の延長に超常現象があるため、相当に上手くやらないと嘘臭くなります。
どこにでもいる普通の少年少女がいきなり異能力に目覚めて活躍したりすると、それなりの年齢になってしまうと、その都合の良さに興醒めする場合が多いです。
第一、舞台を学園にくくってしまうと、大人になっていくにつれて次第に興味が薄れていってしまいます。
そして、退屈な日常の中で、学園ファンタジーに対して冷めた目を持つようになるのです。
現代ものである以上、その時代を反映した流行り廃りも影響するので、10年後に通用しない作風も多いのです。

だからこそ、日本特有のアクションとして、チャンバラ時代劇の存在感が光るのです。
時代劇は、そもそも過去の時代を舞台としているので、現代の流行り廃りにとらわれる必要がありません。
しかも、自然科学が発展する以前の時代であるため、今では非科学的とされる超常現象や妖怪変化の類を当たり前に受容している世界となります。
つまり、良い意味で嘘八百の誇大妄想を繰り広げることができ、現代の常識にとらわれる必要がないのです。

その上、過去の時代を背景とするために、見るのも作るのも、ある程度教養が必要になるので、知的な娯楽として嗜むことができるのです。

しかし、どういう訳か、世間では「時代劇というものは暇な老人が見るもの」という固定観念ができており、演歌と同じく「古臭いどうでもいいもの」という風潮があります。
アラカンこと嵐寛寿郎扮する「鞍馬天狗」シリーズは、戦中戦後の子供に絶大な支持を得て、現代の「仮面ライダー」にも通じる「覆面ヒーローもの」という定型を築き上げました。
アラカンの人気によって、町では子供がチャンバラごっこに明け暮れたそうです。
子供が大好きな変身ヒーローや変身ヒロイン、ロボットアニメは、構造分析をすれば、どれもが勧善懲悪時代劇を踏襲したものになっています。
日本のヒーローは、必ずといって良いほど、武器として刀剣を使います。
ロボットですら刀剣を使います。
つまり、現代ものも未来ものも、本質的には時代劇なのです。

それなのに、本当は大衆娯楽の王者であったはずの時代劇が、何故か衰退の一途をたどっています。
昔は毎日何かしらの時代劇が放送されていたそうですが、今は新作時代劇はほとんどありません。
時代劇の定番であったはずの「水戸黄門」さえも終了に追い込まれ、「NHK大河ドラマ」だけが頼みの綱という状態は、あまりにも日本独自の文化をないがしろにしすぎているのではないかと、民富田智明は疑問を感じています。

これは、ゆゆしき事態です。

確かに、時代劇を実写映像で制作するのは大変な労力と資金が必要となります。
今の世の中、どこもかしこも開発されて、山奥でさえも道路が舗装されて、鉄塔がそびえ立っています。
撮影場所の手配は難しいし、正統派の殺陣ができる俳優さんもいなくなっているので、往年の名作時代劇と比べると見劣りしてしまうのは事実なのかもしれません。

しかし、時代劇は、何も実写でなければならないという理由はないはずです。
時代劇が消滅すると危惧されても、書店では毎月のように新作時代小説が売られています。
漫画だろうが、絵本だろうが、やろうと思えばいくらでも時代劇はできるのではないでしょうか。

なんだかんだで、私たち日本人は、小さい頃に昔話の絵本を読み聞かせされて育っています。
その時点で、時代劇の素養はできているはずなのです。

それなのに、何故時代劇が衰退していったのでしょうか。

その理由は、「現代の青少年の嗜好に合わせた時代劇がなかったから」だと考えています。
若い世代に対して訴求力のある時代劇がなかったからこそ、「時代劇は暇な老人が見るもの」という固定観念が出来上がってしまい、化石のようになっていったのです。
時代劇の定番が「水戸黄門」という爺さんが旅する作品なのですから、全盛期の旧作時代劇を知らない若者からすると老人向けという印象しかないのは当たり前です。
少年少女が異能力に目覚めて超人的な活躍をする漫画の世界観で育った若い世代からすると、華のない中高年老年男性が刀を振るう姿に「何かが違う」感を覚えてしまうのかもしれません。

とはいえ、実写の時代劇が減る一方で、「るろうに剣心」や「無限の住人」のように、漫画としての時代劇の需要はありますし、「灼眼のシャナ」のように、日本刀を持つ美少女という萌え要素としての強力な需要もあります。

つまり、やりかたを子供向け、若者向けにすれば、いくらでも時代劇を作ることはできるということなのです。
そのため、民富田智明は、あくまでも10代の青少年や10代の気持ちを失わない20代以降の男性が共感を覚えるような時代劇(派生としての現代劇や未来劇)を作ることを主軸にして、ファンタジーとしてのチャンバラアクションをやりたいのです。

そして、「鬼神童女遊侠伝」シリーズを通じて、埼玉県の文化的発展、及び日本の文化的発展に少しでも役立つことができれば、創作を志す者として本望なのです。

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地場産業の発展に結び付ける

「鬼神童女遊侠伝」シリーズは、食品専門ブランドとして「神饌共食~お凜様の大好物~」を展開していく計画があります。
これは、民間伝承を現実の地場産業に結び付ける試みであり、人間が生きる上で最も重要な「食」という文化を発展させていくためのものです。

民富田智明の地元である埼玉県では、あまりこれといった観光地がないからか、色々なB級グルメを開発してみようとしたり、深夜アニメで聖地化するのに躍起になったりと、試行錯誤がなされています。
しかし、そのどれもが一過性の話題で忘れられたり、そもそも認知もされていなかったりする現状があります。

民富田智明は、その動向を県民として静観しつつも、なんとかして自分の才覚で地元に役立てられないかと思案し続けてきました。

そこで思いついたのは、ご当地作品とご当地食品を共通の世界観で直接的に結び付け、「鬼神童女遊侠伝」シリーズの一環として「日本らしい食べ物」を前面に出したオリジナルパッケージの開発をするという試みです。

民俗信仰を考える上で大切なことは、神と人との関わり合いです。
古来より、日本人は神を身近なものとしてとらえてきました。
人知を超えた存在である神を畏れつつも敬い、うまくご利益を授かれるようにと利用してもきました。
人は、酒食をもって神を歓待していい気分にさせ、その見返りとして、五穀豊穣や無病息災を願ってきました。
まさに、食文化は、神と人との関わり合いの中で育まれてきたといっても過言ではないのです。

「鬼神童女遊侠伝」シリーズは、山に住むお凜様と村に住む少年少女との一期一会の交流を描いたものであり、「神饌共食」というキーワードが重要なテーマになっています。
つまり、民俗信仰「武州鬼姫信仰」が実際に生活に根差して武州の地に伝わり続けていたと仮定すると、「お凜様が大喜びでおいしそうに食べてくれた料理」が郷土食として存在することに必然性があります。

神様がおいしく食べてくれる料理を、人間が食べておいしくないというはずがありません。
そして、実際にそういう歴史的背景があったと考えると、ご当地名物として「お凜様の大好物」が商品化されるのは自明の理といえます。
だからこそ、そのような食品をパッケージ化して販売することは、「鬼神童女遊侠伝」シリーズの世界観を実生活の中で共有することになり、新しい民俗信仰を地場産業の発展に役立てることにつながるのです。

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